三木崇稔のゆるふわ哲学

難しい考えを抜きに哲学するブログ

あなたの夢や理想を叶える人生設計の描き方

みなさん、こんにちは。

みなさんには人生設計はあるでしょうか?

 

「家を建てたい」

「幸せな家庭を築きたい」

「大金持ちになりたい」などなど

 

自分の理想とする人生や夢を実現する為には、プラモデルを組み立てる為に必要となる設計図のようなもの、つまり人生設計が必要です。しかし、大抵の場合、そういった理想や夢を抱いていても何から始めればいいのか分からない、つまり人生設計を描くことが出来ていないものです。そこで今回は人生設計の描き方について考えていきたいと思います。

 

まず必要となるのは、当然完成図、つまり自分の理想や夢を持つことです。どんなものにも言えることですが、ゴールが分からない限り、そこへ至る道筋は描くことは出来ません。ただ今回はテーマ違いなので、この部分の詳細は割愛いたします。

 

ここからが本番、そういった自分の理想や夢を描けたらどうすればいいのかというと、その答えはただ一つ、そこへ至る道を阻むボトルネック、障害を考えることです。

 

たとえば大金持ちになりたいという理想があるとすれば、おおよそ考えられる障害は「大金を得る手段」、つまり「稼ぐ手段」がない、或いは知らないことでしょう。なので、まず着手しなければならないことはその「稼ぐ手段」を確保することが分かります。

 

つまり、人生設計を考える上でそのボトルネックを考えるという事は、そこへ至る為のステージ、段階を明確化することにつながります。

 

したがって、言ってしまえば人生設計を描けない主な原因は、そこへ至る為のステージを細分化できない、つまり作業工程を大まかにし過ぎていることが原因である場合がほとんどだと言っても過言ではないでしょう。

 

出来るなら自分の夢や理想はなるべく早く達成したい、そう感じるかもしれませんが、急がば回れということわざもあるように、少し時間がかかったとしても無理なく、少しずつ達成できることから始めること、それが大切です。

悪口人間との付き合い方

みなさん、こんにちは。

突然ですが、みなさんの周りに誰かの悪口ばかりを言っているような人はいるでしょうか?

 

そういった悪口が大好き!という人ならいいのでしょうが、基本的に誰かの悪口を聞くのはかなり苦痛なものです。では、そういう時はどうすればいいのでしょうか。今回は誰かの悪口に遭遇した時の対処方法について考えていきたいと思います。

 

まず、もっともシンプルな解決方法としては、そういった悪口をいう人との付き合い自体を断つことでしょう。付き合わなければ、そういった悩みなど不要ですから。ただ、やっぱり場合によっては、そういった人との付き合いをしなければならないことはあるので、絶対的な解決方法とは言えないでしょう。

 

次に考えられるのは、シンプルに断りを入れることだと考えられます。ただ、この時に注意しなければならないのは、ストレートに「悪口は止めてください」というのは良い手であるとは言えず、かえってトラブルを引き起こすことがあります。

 

ではどうすればいいのかというと、コーチングの手法から、この場合に友好的である返しとして、「自分の感じていることを伝えること」が挙げられます。つまり、命令口調ではなく自分がどう思っているのかだけを伝えること、それが大事なのです。

 

他にも、相手に何か改めてほしいことがあるとすれば、いきなり改めるように命令するのではなく、相手のその行動に対して自分がどう感じているのか、それを最初に伝えること、それを心掛けるだけで対人間のトラブルは少なくなるものです。

 

ただ、残念ながらこの方法も完ぺきではなく、確実に相手が改めるということはありません。なぜなら、対人関係の鉄則である「相手というのは変えることは出来ない」というものが存在する為です。つまり、最終的には相手が変わろうと思わない限り、改めることは絶対にありません。

 

なので、最終的には最初に戻って、こちらが改めるように促しても変わらないような人との縁は、なるべく断つように動いた方が賢明であると個人的にはそう考えています。

嫌いな人との付き合い方

みなさん、こんにちは。

突然ですが、みなさんの周りにどうしても好きになれない人はいるでしょうか?そういった人とは付き合わないことに越したことはないでしょうが、仕事の関係上などでどうしても付き合わなければならないことがあると思います。では自分の苦手な人と付き合っていく為の方法について考えていきたいと思います。

 

まず結論から申し上げますと、相手が好きな相手であろうと嫌いな相手であろうと行うことはたった一つです。相手の話に耳を傾け、誠実に付き合うこと、ただそれだけです。

ただここで問題となるのは、そういった態度を取ることによるストレスや気疲れといった自分のメンタルケアをどうするのかということだと考えられます。では、この問題をどのように解決すればいいのでしょうか?

 

まず最初に考えられるのは、そういったことを気にしないようにすること、つまり「鈍感」になることです。どんな病にも言えることですが、精神病というのはそういった諸問題に対する反応が過剰になるからこそ発病することになります。そのいい例として、アレルギーも抗体反応という身体の正常機能が過剰に反応している状態を指しており、言い換えれば精神病というのは、心の恒常機能(ホメオスタシス)が崩れている状態とも言えるでしょう。なので、なるべくその恒常性を崩さない、反応しないことが一番だと言えるでしょう。しかし、この世界には様々な人がおり、その数だけ個性というものがあります。なので、人によっては気にしないようにするということはなかなかできないという場合も十分に考えられるでしょう。

 

では、そういった諸問題に対して鈍感になれない繊細な人の場合、どのように対処すればいいのでしょうか?

 

その答えは単純明快、溜めこんでしまったストレスや疲れが自分の限界値に達する前に、定期的に発散させること、それしかありません。ではどのように発散させればいいのかと言うと、正直に言ってそれは人それぞれであるとしか言えないでしょう。

 

つまり、言ってしまえば、職場の人間関係をはじめとする日常生活の諸問題が気にならないような夢中になれる何かを見つけること、それがあらゆる諸問題を解決する一番の近道であると言えるかもしれません。

 

あなたは今何か熱中していることはあるでしょうか?

夢中になれるものは、探せば必ず見つかるものです。もし、今何か悩んでいることがあるとすれば、今一度自分がどんなことが好きだったのかを振り返ること、それが大切なのだと個人的には感じています。

会話のコンテキスト(文脈)を読む

みなさん、こんにちは。

突然ですが、みなさんは「コンテキスト」という言葉を知っているでしょうか?単純に和訳するなら、コンテキストというのは「文章の前後の脈絡」、やまり文脈という意味です。

 

この文脈を把握すること、これは学校の国語でも習うように、日常生活において、その言葉の背景や真意を読み解くことで、相手の心に寄り添うこと、共感力を身につけることにつながります。そこで今回はコンテキストを読み解く為に大切なことを考えていきたいと思います。

 

とは言っても、いきなりすべてのコンテキストについて把握することは難しいと思いますので、大切なことを一つだけ挙げるとすれば、それはBehavior、つまり動作を意識することです。

 

なぜ言葉なのに動作に注目するのかと言うと、ただ単純に日常生活における会話というのは、言葉よりも動作によるもの、つまりボディーランゲージ(肉体言語)による意思疎通の割合が多いと言われています。

 

例えば、俳優の竹中直人さんの持ちネタ?である「笑いながら怒鳴る人」というものをご存知でしょうか?そのネタを思い出していただければ分かり易いと思いますが、人というのはその言葉や言葉遣いなどよりも発言者の表情や様子による印象が強くなる傾向があり、その傾向から例の「笑いながら怒鳴る人」は、怒っているというより楽しそうにしているという印象が強くなり、結果笑いのネタのような認識をされているわけです。

 

したがって、たとえどれだけ称賛し、承認するような発言をしていても、顔が引きつっていたり、眉をひそめたりなどのちょっとでも不快を表す動作が見られたら、もしかしたら、その言葉のコンテキストには「不快」の意味が込められているのではないかと配慮することが大切だと言えるでしょう。

 

ただ、日本人は協調性が高い民族だと言われることから、そういった真意を隠すのが上手な人も多く、表情だけでは分かりにくい場合があります。そんな時は、どうすればいいのかというと、元FBI捜査官のジョー・ナヴァロの著書「FBI捜査官が教える「しぐさ」の心理学」によると、足を見ればよいとされています。

 

なぜ足を見ればいいのかと言うと、それは単純に脳からの距離が一番遠い部位だからであり、顔よりも真意を隠しにくいからだそうです。では、どのようにして、足からその人の真意を読み解けばいいのでしょうか?

 

例えば、足による一番のボディーランゲージとして「貧乏ゆすり」というものがありますよね。この貧乏ゆすりは想像通り、ストレスを紛らわす行為、つまりストレスを感じているサインだと言えます。ただこの貧乏ゆすりは、その人の癖であることが多く、すべての人が行うわけではありません。

 

なので、見るべきことを一つだけ挙げるとすれば、それはつま先が何処を向いているのか、それを注意深く観察することでしょう。

 

なぜならば、つま先の向きというのはどこへ向かうのかという歩み先を表しており、そのことから会話の途中、つま先がこちらではなく、別の方向へ向いていたならそれはその場を離れる行動に移っている、つまり興味が削がれている、不快に感じているサインだと言えるからです。

 

その他にも足だけではなく、身体なども自分ではなく、明後日の方向へ向けられていたら、それは早く会話を打ち切りたいという気持ちの表れである可能性が高いと言えます。

 

したがって、以上のことからまず明日から実行できるコンテキストの読み解き方法を挙げるなら、対話時に相手の身体の向きを見ること。そして、その向きが自分に向いていないなあと感じたら、もしかしたら少し不快というコンテキストが含まれているのではないかということが分かるはずです。

自粛や規制を乗り越えて

今年は、様々なことを自粛しなければならないので、何かとストレスが溜まりがちではないでしょうか?

 

やりたいことをやることが出来ない。

これ以上に欲求不満となることはないでしょう。

 

では、こういったやりたいことを何らかの自由で出来ない場合、どうすればいいのでしょうか?

 

まず初めに必要なのは、自分自身がやりたいと思っていることを再確認することが考えられます。たとえば、基本的にどんな人も野球がやりたい、とか旅行に行きたいといった具合に、やりたいことが具体的ではないでしょうか?

 

けれど、今のようにそういった具体的にやりたいことが出来ない時、どう頑張ってみたところで、出来ないものは出来ません。なので、自分のやりたいことをもう少し、抽象化することがあるのです。

 

例えば、先ほどの例を引き続き用いれば、野球がしたいという思いは、ただ単に身体を動かしたいという考えから来ているかもしれないですし、旅行に行きたいという思いはただ単に気持ちの切り替えをしたいと感じているだけかもしれません。

 

なので、この時以外にも言えることですが、自粛や規制が設けられた時は、自分自身が本当に成し遂げたいことを振り返り、その思いを成し遂げることが出来る別の方法を考慮することが大切なのです。

 

 

お盆シーズン到来

今はお盆期間です。

お盆と言えば、実家に帰省し、家族みんなで過ごすものですが、元々も皆さんもご存知のように、先祖の霊を出迎え供養する風習のなごりですね。

 

哲学以外でも色々と議論されることですが、「死」というものはどういうものか明確に説明できる人はこの世にいません。なにせ死を体験したという人はこの世に存在しないのですから。

 

ただ、このことから一つだけ「死」について、特徴が言えるとしたら、死というのは不可逆性を有するものだということ。つまり、死という状態になったら、生の状態に戻ることは出来ません。

 

けれど、世の中には心肺停止状態に陥りながらも、奇跡の生還を遂げたという人がいます。仮に人の死が心肺停止であると仮定した場合、死の不可逆性を否定することはできるかもしれません。

 

そこで問題となってくるのは、「死」というのはそもそもどういう状態になった時に初めて「死」と定義されるのかというもの。一般的に、死というのは人体の生命機能が停止状態になった時のことを指しているでしょう。

 

ところが、世にはたとえ生命体としての死が訪れたとしてもそこで本当の死を迎えるのではなく、他の人々の記憶の中から失われる時、つまり人々からその人という人間が完全に忘れ去られた時まで、その人は死んでいないと考えている人もいます。

 

そうなってくると、死という定義はかなり難しくなってくると僕自身思います。ただ、このお盆という風習があることを考えると、過去の日本人は人の死の定義として、後者の方、つまり人々から忘れられた時を本当の死だと明確ではないけれど、薄々はそうだと認識していたのではないかと伺えます。

 

僕自身もどちらかというと、後者の方を死だと感じており、人が亡くなってしまうことはとても寂しいことですが、たとえ人が失われて悲しみに暮れていたとしても、その人のことを忘れないこと、それが重要のだと感じています。

 

f:id:deemcoach:20200814173057j:plain

ろうそく

 

信念はどんな人にも存在する

信念とは、どういうものを言うのでしょうか?

信念を文字通りに考えるなら、自分が常日頃から頭で思い描いて(念じて)信じていることを指す言葉でしょう。

 

世間には、自分に何の信念もないという人がいますが、この条件に照らし合わせるともし、仮に本当に信念がない人がいるとしたら、その人は何も考えず、本能だけで生きているまるで獣のような人という事になってしまいます。

 

個人的な意見ですが、おそらくそんな人はほとんどいないでしょう。基本的にどんな人も、何らかの自分の信ずること、例えばラクして生きたいとか、苦労はしたくないとかなどのマイルールを定め、生きているはずです。ただ、そのマイルールが人に堂々と宣言できる誇らしいものかどうかで、信念の有る無しの判断基準になっているに過ぎないのでしょう。

 

以上のことから、信念とはその人の生き様と言い換えることが出来ます。

つまり、今の自分の生き様に何らかの疑問を感じているなら、今自分がどんなマイルール(信念)に従って生きていて、そのマイルールを自分の理想とするものに変化させることを考える必要があるでしょう。

f:id:deemcoach:20200806093005j:plain

感謝のこころ