自粛や規制を乗り越えて
今年は、様々なことを自粛しなければならないので、何かとストレスが溜まりがちではないでしょうか?
やりたいことをやることが出来ない。
これ以上に欲求不満となることはないでしょう。
では、こういったやりたいことを何らかの自由で出来ない場合、どうすればいいのでしょうか?
まず初めに必要なのは、自分自身がやりたいと思っていることを再確認することが考えられます。たとえば、基本的にどんな人も野球がやりたい、とか旅行に行きたいといった具合に、やりたいことが具体的ではないでしょうか?
けれど、今のようにそういった具体的にやりたいことが出来ない時、どう頑張ってみたところで、出来ないものは出来ません。なので、自分のやりたいことをもう少し、抽象化することがあるのです。
例えば、先ほどの例を引き続き用いれば、野球がしたいという思いは、ただ単に身体を動かしたいという考えから来ているかもしれないですし、旅行に行きたいという思いはただ単に気持ちの切り替えをしたいと感じているだけかもしれません。
なので、この時以外にも言えることですが、自粛や規制が設けられた時は、自分自身が本当に成し遂げたいことを振り返り、その思いを成し遂げることが出来る別の方法を考慮することが大切なのです。
お盆シーズン到来
今はお盆期間です。
お盆と言えば、実家に帰省し、家族みんなで過ごすものですが、元々も皆さんもご存知のように、先祖の霊を出迎え供養する風習のなごりですね。
哲学以外でも色々と議論されることですが、「死」というものはどういうものか明確に説明できる人はこの世にいません。なにせ死を体験したという人はこの世に存在しないのですから。
ただ、このことから一つだけ「死」について、特徴が言えるとしたら、死というのは不可逆性を有するものだということ。つまり、死という状態になったら、生の状態に戻ることは出来ません。
けれど、世の中には心肺停止状態に陥りながらも、奇跡の生還を遂げたという人がいます。仮に人の死が心肺停止であると仮定した場合、死の不可逆性を否定することはできるかもしれません。
そこで問題となってくるのは、「死」というのはそもそもどういう状態になった時に初めて「死」と定義されるのかというもの。一般的に、死というのは人体の生命機能が停止状態になった時のことを指しているでしょう。
ところが、世にはたとえ生命体としての死が訪れたとしてもそこで本当の死を迎えるのではなく、他の人々の記憶の中から失われる時、つまり人々からその人という人間が完全に忘れ去られた時まで、その人は死んでいないと考えている人もいます。
そうなってくると、死という定義はかなり難しくなってくると僕自身思います。ただ、このお盆という風習があることを考えると、過去の日本人は人の死の定義として、後者の方、つまり人々から忘れられた時を本当の死だと明確ではないけれど、薄々はそうだと認識していたのではないかと伺えます。
僕自身もどちらかというと、後者の方を死だと感じており、人が亡くなってしまうことはとても寂しいことですが、たとえ人が失われて悲しみに暮れていたとしても、その人のことを忘れないこと、それが重要のだと感じています。
信念はどんな人にも存在する
信念とは、どういうものを言うのでしょうか?
信念を文字通りに考えるなら、自分が常日頃から頭で思い描いて(念じて)信じていることを指す言葉でしょう。
世間には、自分に何の信念もないという人がいますが、この条件に照らし合わせるともし、仮に本当に信念がない人がいるとしたら、その人は何も考えず、本能だけで生きているまるで獣のような人という事になってしまいます。
個人的な意見ですが、おそらくそんな人はほとんどいないでしょう。基本的にどんな人も、何らかの自分の信ずること、例えばラクして生きたいとか、苦労はしたくないとかなどのマイルールを定め、生きているはずです。ただ、そのマイルールが人に堂々と宣言できる誇らしいものかどうかで、信念の有る無しの判断基準になっているに過ぎないのでしょう。
以上のことから、信念とはその人の生き様と言い換えることが出来ます。
つまり、今の自分の生き様に何らかの疑問を感じているなら、今自分がどんなマイルール(信念)に従って生きていて、そのマイルールを自分の理想とするものに変化させることを考える必要があるでしょう。