三木崇稔のゆるふわ哲学

難しい考えを抜きに哲学するブログ

お盆シーズン到来

今はお盆期間です。

お盆と言えば、実家に帰省し、家族みんなで過ごすものですが、元々も皆さんもご存知のように、先祖の霊を出迎え供養する風習のなごりですね。

 

哲学以外でも色々と議論されることですが、「死」というものはどういうものか明確に説明できる人はこの世にいません。なにせ死を体験したという人はこの世に存在しないのですから。

 

ただ、このことから一つだけ「死」について、特徴が言えるとしたら、死というのは不可逆性を有するものだということ。つまり、死という状態になったら、生の状態に戻ることは出来ません。

 

けれど、世の中には心肺停止状態に陥りながらも、奇跡の生還を遂げたという人がいます。仮に人の死が心肺停止であると仮定した場合、死の不可逆性を否定することはできるかもしれません。

 

そこで問題となってくるのは、「死」というのはそもそもどういう状態になった時に初めて「死」と定義されるのかというもの。一般的に、死というのは人体の生命機能が停止状態になった時のことを指しているでしょう。

 

ところが、世にはたとえ生命体としての死が訪れたとしてもそこで本当の死を迎えるのではなく、他の人々の記憶の中から失われる時、つまり人々からその人という人間が完全に忘れ去られた時まで、その人は死んでいないと考えている人もいます。

 

そうなってくると、死という定義はかなり難しくなってくると僕自身思います。ただ、このお盆という風習があることを考えると、過去の日本人は人の死の定義として、後者の方、つまり人々から忘れられた時を本当の死だと明確ではないけれど、薄々はそうだと認識していたのではないかと伺えます。

 

僕自身もどちらかというと、後者の方を死だと感じており、人が亡くなってしまうことはとても寂しいことですが、たとえ人が失われて悲しみに暮れていたとしても、その人のことを忘れないこと、それが重要のだと感じています。

 

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