三木崇稔のゆるふわ哲学

難しい考えを抜きに哲学するブログ

あなたは誰に対しても「平等」に接することが出来ますか?

良き友人にまさる

財産などありはしない。

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ソクラテス

誰に対しても平等に接する。これは深く考えるまでもなく、人間関係を良好にするための秘訣です。

では、「平等に接する」というのは、どういう行動を言うのでしょうか?

 

そもそも親交度合いというものが人付き合いがある以上、誰に対しても同じような態度を取れることは困難と言えます。どういうことかというと、例えば家族や恋人に対する接し方と全く見ず知らずの人との接し方は、どれだけ器の大きい人であっても、全く同じように接することはなかなか出来るものではありません。それこそ、たとえ親友とも呼べる親しい友人であっても、男女関係にある者同士の行為をすべてその友人と行えるかと言われたら、基本はできないと誰もが答えるでしょう。

 

つまり、結論として行動レベルでの平等は、人間関係においては成立しないと考えられます。ただ、親交度合いを例えば「家族・友人・知人・他人」などと段階に分けて、それぞれの段階ごとに、一貫した行動の平等はありえるでしょう。

 

ただ、ここまでの話はあくまでも「行動」に関するもので、心掛けのような「心情」を考慮しなければなりません。そして、一般的に対人関係における平等な接し方で重要となってくるのはこの心情における平等でしょう。

 

どういうことかというと、先程行動レベルでの平等は、人間関係において成立せず、段階に分ければ成立する可能性があると述べましたが、これはあくまでも行動のみに注目した場合であって、人には心がある以上、親交度合いに応じて人への態度を変えていると、基本的にはその人は平等であるという評価を他人から受けることは出来ないでしょう。

 

要するに、たとえ親交度合いの違いにより、すべての行動をすべての人に対して、平等に行えないとしても、親交度合いに関わらず、一貫してすべての人に対して平等に与える何らのものがないといけません。それが心情に関するものであり、世に言う「思い遣り」=「心配り」です。

 

では、どんなものが他人に与える思い遣りでしょうか?

まず考えられるのが、明るく元気に接することとか笑顔で接するとか相手が自分と接して不愉快にならないことでしょう。よくよく考えて、これらのことは特段難しいことではなく、むしろ小学校などで口酸っぱく言われることではないでしょうか?

 

ここまで、色々難しく書いてきましたが、結論として平等とはそれほど難しいことではありません。もし、平等に接することが難しく感じるとすれば、それは誰がとかではなく、自分自身が困難にしているに過ぎません。何故なら、真の意味での平等は、行動ではなく、その人の心情にかかっているのですから。